2017年12月14日

そうこうしているうちに

そうこうしているうちに、今年も残り少なくなってしまった。
この半年の間、様々なことがありました。
(たいていは嬉しいことで、特に孫と遊ぶのは
最高に楽しい!)

音楽活動に関しては、なんだかいろいろ動いています。
私の作曲した作品が県内の複数の地域で練習が進められていて、
来年の上演に向けて始動しています。
私の与り知らぬところで、
いつの間にか事が運んでいるみたいです。

私自身の聖書に対する姿勢や信仰に関することは、
近年大きくモード・チェンジしているのですが、
未だうまく言語化できない状態で、
でもその分、童謡風の作詞と作曲によって
それらを象徴的に伝えようとしている時期
なのかもしれません。

でも、来年はもっと言葉で表現できるように
なりたいと思います。

(先月初め頃、県西部の南足柄のあたりで、自宅の庭を開放して
ざる菊園をやっている方のお庭を訪れました)

zarugiku.jpg
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2017年08月18日

野暮な素人のつぶやき

ボクシングの世界バンタム級タイトルマッチで、
山中選手が防衛記録のかかった試合を落としてしまいました。
悔しさもありますが、先ずはお疲れさまと言いたいです。

第4ラウンドでトレーナーが試合を止めた件が
取り沙汰されていますが、私の野暮な私見を述べてみます。

最初にテレビで両雄がリングに上がった姿を見た時、
何となく試合を見たくない気持ちになり、
試合開始を待たず風呂に入りました。
しばらくして風呂から上がり、部屋に戻って
テレビを見たら、山中選手が泣いていて、
「ああ、負けちゃったんだな。」と思った。

リングに上がった時から、何か背負っちゃってる感じ。
表面は冷静そうに見えたけど・・・。
だから試合を見たくなくなったわけです。

後から試合の模様を録画を見て思ったことは、
相手のネリ陣営は賢かったこと。
立ち上がりは山中との距離感、パンチを出すやり方や
タイミングをじっと伺って分析しているかのよう。

そこへチャンピオンは皆の期待を背負いながら
強いジャブやストレートを積極的に放ち、
結果としてネリ陣営は分析がやり易くなったかもしれない。

そして、問題の第4ラウンドに入ると、
ネリは山中との距離感を完全に掌握したかのように見えます。

たまに左ストレートがネリの顔面を浅く捕らえても、
挑戦者は少し手を休めて自分を距離感を立て直す。
そうして次第にチャンピオンのパンチは当たらなく
なっていきます。
チャンピオンの左を外しながら自分のパンチは当てる、
そんな距離とタイミングをつかんだらしい。
こうなると山中には攻め手が無くなってきます。

このような状況でたて続けに被弾しているチャンピオンを見て、
トレーナーのタオルが入ったのではないかと思います。
私的には正しい判断だったのではないかと思います。

秀逸な山中チャンピオン。どうか、
素人の野暮なつぶやきをお許しください。


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2017年07月18日

またまた神のことばについて

「神のことば」に関することですが、
私は今こんな風に考えています。
(前にも似たようなことを書いた気がしますが)

音楽には「ムジカ・ムンダナ(大宇宙の音楽」、
「ムジカ・フマナ(人間の音楽)」、
「ムジカ・インストルメンタリス(道具の音楽=声楽、楽器を含めた
現象としての音楽の意」、という三種類があると、
中世ヨーロッパの人々は考えていたそうです。

ここで言う音楽は、イコール神秘的調和と言い換えられると思います。
この中で3番目のムジカ・インストルメンタリスだけが、
人間にとって音楽として感じられるものになります。

これを神のことばに当てはめれば、
「被造物という神のことば(マクロコスモス的)」、
「人間という神のことば(ミクロコスモス的」、
「聖書や預言等の言語化された神のことば」、
という三種類があると思います。

この中で3番目の聖書や預言等だけが、人間にとって
言葉として理解できるものになります。
たしかに聖書は基準、測り縄として必須のものですが、
「この66巻だけが間違いの無い神のことばだ」、と
言い切れるものではないと思います。

イエスも、トーラーから引用してみことばを述べる
(これは主に律法学者、パリサイ人に対して)だけでなく、
「野の草を見よ」「空の鳥を見よ」と、むしろ被造物を通して
神のことばを伝え、また、農耕作業や漁業の有様などの
人間の活動を通して語られました。

知情意を備えた人間という営みの凄さの中にも、
神のことばは満ちています。
(イエスご自身は、その結晶)

基準や測り縄だけでは、神の心は十分には伝わらないでしょう。
基準の測り縄を使ってある人を測ってみると、
例えば縦が長すぎ、横が短すぎ、全体の重さが重すぎ・・・
等々と判定され、
では、余っている上の部分は切り落として
それを足りていない横のところにくっ付けよう。
重すぎる分は捨ててしまおう・・・
なんていうことになりかねませんから。

あえて言ってしまえば、イエスは被造物であり、
人間であり、聖書のことばである…、のでしょう。

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2017年05月30日

不思議です2

以前から、ベンガルの詩人タゴールの詩に音楽をつけてみたいと
思っていましたが、最近、彼の詩に触発された自作の詞を使って
作曲が進行中です。

詞そのものは、タゴールのオリジナルとは大きくかけ離れた
内容とレベル(やや童謡風)のものですが、作曲してみると・・・
なんだか不可思議なスピリチュアル系の雰囲気が
音楽全体を覆っているように感じます。
(自分で言うのも変ですが、やたらキレイな感じ)

ちょっと怪しい世界に足を踏み入れているのかも。
でも、臆せずに最後まで作り上げてみるつもりです。
そのうち発表の機会があるかもしれません。


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2017年05月20日

不思議です

最近、特に作曲に関して、いろいろな方々から
様々な用件を頼まれることが多くなってきました。

昨年の後半に「音楽家魂」のゲットバックが始まって、
それ以降増えてきてる感じで、このこと自体不思議です。

相当高度なことを頼まれることも少なくなく、
正直「やばいなー、出来るかなー?」と思いつつ
お引き受けするわけですが、
不思議とそれなりに出来てしまうのですね。

もう何十年も音楽に関わっている中で、
知識や技術の継続的な蓄積も勿論ありますが、
ある意味、音楽家として腹をくくって本気になって、
初めて神の動きに乗れる、ということなのでしょう。
やっぱり神は「不思議」です。

今も二曲の新作を頼まれていて、
「うーん、やばいなー」と悩みつつ、
日々手探りで作業しています。
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2017年04月27日

変わらないお方

イエスは変わらないお方。
であれば、十字架と復活によって新創造の初穂となられた主は、
永遠の昔から、ずっとそのようなお方であったと思われます。

新しい創造を生み出すために主がなされた御業は、
想像を絶する苦しみを伴うものでした。
であれば、最初の創造も、きっとそのようなものだった
のではないかな、と思うわけです。

天地創造の時、イエスはご自分を御父の法の中に投げ出された。
現在、私たちが住んでいる旧創造の大自然は、主がご自分の
あり方をそこに限定された、その結果なのだろうと思います。
主は、父の法の中にあえてご自分を閉じ込めた・・・。

だったら私たちは、主の中に生き、動き存在していて、
大胆に言ってしまえば、ある意味、私たちは主の一部である、
ということになります。
(被造物が主イエスとイコールと言うのではなく、
被造物は主の様態の一つであると感じているのです)

もともとこのようなお方であればこそ、
ナザレのイエスという一時代、一地域の人の人生に
ご自分を限定し、普通の人のように誕生、成長、死を経られた。
これらのことも言ってみれば当然彼らしい行為であった
と思うわけです。

まあ、こんなことを感じ、思ってはいても、
それが聖書の記述と合わないのであれば、
かなり危険なことですね。
でも自分が感じていることに対しては
正直でありたいと思っているのです。
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2017年04月08日

岩と肉

2月19日の記事にも書いていた自作の合唱曲の上演が、
本決まりになってきました。未だ日時は不明ですが、
練習が難航することも予想されますので、
実演はかなり先の話になるでしょう。

話は変わって聖書のこと。
いわゆる啓典を奉ずる宗教が何種類かあり、
キリスト教もその一つ。啓典主義の中の一つ
とでも言いましょうか。

聖書は神のことばです。全くそのとうりと信じています。
が、それは岩に刻まれた法なのか、肉にうめ込まれたいのちなのか。
その捉え方が大事なんだと思います。

「岩の法」は、例えば交差点で信号が青に変わったから
問答無用!何が何でも発進だ!・・・という捉え方。
「肉のいのち」は、信号だけでなく、その時々の道路状況を見て、
主体的に考えて行動を決めていく・・・という感じかな。

前者は思考停止を要求しますが、
後者は自分の思考や判断が不可欠です。

ちなみに啓典を信じない立場は、信号なんて全部無視、
「フッフッフッ、私こそ真の法だ」という状況かな。

啓典主義の怖いところは、啓典そのものが神になり、
そしてそれを解き明かしてくれる人や場所(建物)が
この世と切り離された聖なるもの、と感じてしまうことでしょう。
そうして徐々に固められた「岩の法」へと凝縮してゆきます。

神、そしてイエスは生きていて、私も生きています。
その生きたいのちの交流を、神も、私も欲している。
それは日常の営みの中にこそはっきりと感知することが
できると思います。

そのような現実の神と人との相互の営みという実体を、
影のように映し出しているのが啓典(聖書)なのでしょう。





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2017年03月13日

自由意志

例の家庭集会は、実は未だに続いているのです。
そこでは、かなり問題な内容の会話がなされています。
例えば・・・

神は人を造られた時、ロボットのようにご自分に仕える
ようにはなさらず、自由意志を与え、自ら神の道を選ぶことの
できるようにしてくださった。
(サタンが神に逆らうことができたなら、御使いたちにも
同様の自由を与えられたのだろう)

・・・というのが、よく聴くお話ですし、
私も以前は「そうか。なるほど。」と信じていました。

でも少し考えてみると、神が全てを造り、造られた全ては
この方「イエス」によらないものは一つも無いのなら
(このことは今でも疑う余地無しに信じています)、
そもそも善悪を知る木に含まれる「悪」の要素をも
神が造ったことになります。

人に与えた自由意志とは、選ぶ自由のことでしょう。
どっちを選ぶか、何を選ぶか、という自由。
でも、無いもの(神が造らなかったもの)を選ぶことは
出来ないはずです。

「私は無いものを選ぶ!」と言い張っても、
無いものを人が造ることは出来ないでしょう。
もし出来たと思っても、それは既に神の中にあるものだから、
人の頭や心に浮かべることが出来ただけのことでしょう。
そうでなければ、「この方によらずに出来たものは一つも無い」
という言葉と合いません。

こうやって少しでも考えれば、
いわゆるキリスト教が単純化した教義が、
かなり物足りないものであると感じてきます。
神、そしてイエスはもっと深く、もっと広い。
そう思います。
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2017年02月19日

一里塚

昨年の9月の記事にも書いていましたが、
拡張工事を続けていた自作合唱曲が、
間もなく完成脱稿となりそうです。

2009年に横浜の教会を離れてから、
少しずつ実践しはじめた日本語感覚を意識した作曲スタイルに、
一つの答えを見い出したと言えそうです。
最初の単旋律のわらべ唄の形から、
何人かの信頼できる方々からのアドバイスをいただいて、
質量ともに拡充してきました。

自分で編み出したスタイルに、自分自身が慣れて
使いこなせるようになるまでに相当の時間がかかります。
未だ現在進行形ですが、一里塚ぐらいは得られた感がします。
そのうち発表の機会も訪れるでしょう。

全てを造り、治め、貫くお方。
主イエスに感謝します。

↓ 6年ぐらい前のスケッチ
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2017年01月21日

甘美

インドの詩人タゴールの詩に音楽をつけてみたいと
以前から思っていましたが、ちょっとチャンス到来かも。
成り行きが楽しみです。

彼(タゴール)の言う「神」は、ヒンズーの思想の枠内における神なのだろうけれど、
彼と神との関りの甘美さが、その詩から伝わってきます。
彼は神を「あなた」「あの方」「いとしいもの」と呼びます。

「あたなに『唄え』と言われると、私の心は得意になってはち切れそうだ。
そしてあなたの顔を仰ぎみると、私の目に涙が溜まる。〜
私の歌の翼を大きく広げて、その端があなたのみ足に触れる。
そこに届くとは夢にも思わなかったのに。
唄う喜びに酔って私は自分を忘れ、ご主人であるのに、
あなたを『友』と呼ぶ。」(岩波文庫 タゴール詩集より)

さらに、妙に共感してしまう次のような句。

「神がいますのは、農夫が固い土を耕している場所。
道路工夫が石を砕いている場所だ。晴れた日も雨の日も、
神は彼らの傍らにいて、着物は塵にまみれている。
おまえもその法衣を脱ぎ、神に倣って塵芥の所に降りて来い。
解脱だって? 解脱がどこにあるというのだ?
ご主人さまはご自分で、創造界の束縛を喜んで身に受けられた。
永久に私たちと結ばれている。〜」(同上)

イエスに捕らえられた者としては、その内容に「ん?」ってなるところは
勿論あります。
しかし、このベンガル人のように甘美な神との交流の中に生きている人が、
いったいどれだけいるでしょうか。
posted by ゆばる at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記