2017年04月27日

変わらないお方

イエスは変わらないお方。
であれば、十字架と復活によって新創造の初穂となられた主は、
永遠の昔から、ずっとそのようなお方であったと思われます。

新しい創造を生み出すために主がなされた御業は、
想像を絶する苦しみを伴うものでした。
であれば、最初の創造も、きっとそのようなものだった
のではないかな、と思うわけです。

天地創造の時、イエスはご自分を御父の法の中に投げ出された。
現在、私たちが住んでいる旧創造の大自然は、主がご自分の
あり方をそこに限定された、その結果なのだろうと思います。
主は、父の法の中にあえてご自分を閉じ込めた・・・。

だったら私たちは、主の中に生き、動き存在していて、
大胆に言ってしまえば、ある意味、私たちは主の一部である、
ということになります。
(被造物が主イエスとイコールと言うのではなく、
被造物は主の様態の一つであると感じているのです)

もともとこのようなお方であればこそ、
ナザレのイエスという一時代、一地域の人の人生に
ご自分を限定し、普通の人のように誕生、成長、死を経られた。
これらのことも言ってみれば当然彼らしい行為であった
と思うわけです。

まあ、こんなことを感じ、思ってはいても、
それが聖書の記述と合わないのであれば、
かなり危険なことですね。
でも自分が感じていることに対しては
正直でありたいと思っているのです。
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2017年04月08日

岩と肉

2月19日の記事にも書いていた自作の合唱曲の上演が、
本決まりになってきました。未だ日時は不明ですが、
練習が難航することも予想されますので、
実演はかなり先の話になるでしょう。

話は変わって聖書のこと。
いわゆる啓典を奉ずる宗教が何種類かあり、
キリスト教もその一つ。啓典主義の中の一つ
とでも言いましょうか。

聖書は神のことばです。全くそのとうりと信じています。
が、それは岩に刻まれた法なのか、肉にうめ込まれたいのちなのか。
その捉え方が大事なんだと思います。

「岩の法」は、例えば交差点で信号が青に変わったから
問答無用!何が何でも発進だ!・・・という捉え方。
「肉のいのち」は、信号だけでなく、その時々の道路状況を見て、
主体的に考えて行動を決めていく・・・という感じかな。

前者は思考停止を要求しますが、
後者は自分の思考や判断が不可欠です。

ちなみに啓典を信じない立場は、信号なんて全部無視、
「フッフッフッ、私こそ真の法だ」という状況かな。

啓典主義の怖いところは、啓典そのものが神になり、
そしてそれを解き明かしてくれる人や場所(建物)が
この世と切り離された聖なるもの、と感じてしまうことでしょう。
そうして徐々に固められた「岩の法」へと凝縮してゆきます。

神、そしてイエスは生きていて、私も生きています。
その生きたいのちの交流を、神も、私も欲している。
それは日常の営みの中にこそはっきりと感知することが
できると思います。

そのような現実の神と人との相互の営みという実体を、
影のように映し出しているのが啓典(聖書)なのでしょう。





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2017年03月13日

自由意志

例の家庭集会は、実は未だに続いているのです。
そこでは、かなり問題な内容の会話がなされています。
例えば・・・

神は人を造られた時、ロボットのようにご自分に仕える
ようにはなさらず、自由意志を与え、自ら神の道を選ぶことの
できるようにしてくださった。
(サタンが神に逆らうことができたなら、御使いたちにも
同様の自由を与えられたのだろう)

・・・というのが、よく聴くお話ですし、
私も以前は「そうか。なるほど。」と信じていました。

でも少し考えてみると、神が全てを造り、造られた全ては
この方「イエス」によらないものは一つも無いのなら
(このことは今でも疑う余地無しに信じています)、
そもそも善悪を知る木に含まれる「悪」の要素をも
神が造ったことになります。

人に与えた自由意志とは、選ぶ自由のことでしょう。
どっちを選ぶか、何を選ぶか、という自由。
でも、無いもの(神が造らなかったもの)を選ぶことは
出来ないはずです。

「私は無いものを選ぶ!」と言い張っても、
無いものを人が造ることは出来ないでしょう。
もし出来たと思っても、それは既に神の中にあるものだから、
人の頭や心に浮かべることが出来ただけのことでしょう。
そうでなければ、「この方によらずに出来たものは一つも無い」
という言葉と合いません。

こうやって少しでも考えれば、
いわゆるキリスト教が単純化した教義が、
かなり物足りないものであると感じてきます。
神、そしてイエスはもっと深く、もっと広い。
そう思います。
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2017年02月19日

一里塚

昨年の9月の記事にも書いていましたが、
拡張工事を続けていた自作合唱曲が、
間もなく完成脱稿となりそうです。

2009年に横浜の教会を離れてから、
少しずつ実践しはじめた日本語感覚を意識した作曲スタイルに、
一つの答えを見い出したと言えそうです。
最初の単旋律のわらべ唄の形から、
何人かの信頼できる方々からのアドバイスをいただいて、
質量ともに拡充してきました。

自分で編み出したスタイルに、自分自身が慣れて
使いこなせるようになるまでに相当の時間がかかります。
未だ現在進行形ですが、一里塚ぐらいは得られた感がします。
そのうち発表の機会も訪れるでしょう。

全てを造り、治め、貫くお方。
主イエスに感謝します。

↓ 6年ぐらい前のスケッチ
DSC05254.JPG

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2017年01月21日

甘美

インドの詩人タゴールの詩に音楽をつけてみたいと
以前から思っていましたが、ちょっとチャンス到来かも。
成り行きが楽しみです。

彼(タゴール)の言う「神」は、ヒンズーの思想の枠内における神なのだろうけれど、
彼と神との関りの甘美さが、その詩から伝わってきます。
彼は神を「あなた」「あの方」「いとしいもの」と呼びます。

「あたなに『唄え』と言われると、私の心は得意になってはち切れそうだ。
そしてあなたの顔を仰ぎみると、私の目に涙が溜まる。〜
私の歌の翼を大きく広げて、その端があなたのみ足に触れる。
そこに届くとは夢にも思わなかったのに。
唄う喜びに酔って私は自分を忘れ、ご主人であるのに、
あなたを『友』と呼ぶ。」(岩波文庫 タゴール詩集より)

さらに、妙に共感してしまう次のような句。

「神がいますのは、農夫が固い土を耕している場所。
道路工夫が石を砕いている場所だ。晴れた日も雨の日も、
神は彼らの傍らにいて、着物は塵にまみれている。
おまえもその法衣を脱ぎ、神に倣って塵芥の所に降りて来い。
解脱だって? 解脱がどこにあるというのだ?
ご主人さまはご自分で、創造界の束縛を喜んで身に受けられた。
永久に私たちと結ばれている。〜」(同上)

イエスに捕らえられた者としては、その内容に「ん?」ってなるところは
勿論あります。
しかし、このベンガル人のように甘美な神との交流の中に生きている人が、
いったいどれだけいるでしょうか。
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2017年01月04日

年明け  年明け 諸々

新年あけましておめでとうございます。
思い浮かぶままに書きます。

大晦日のコラレス対内山の試合は、
内山選手には失礼ながら、よくあそこまで
やれたな、と思います。
終盤の内山のボディー・ブローは、
明らかにコラレスを苦しめていた。

ただ、やはりコラレスのスピード、身のこなしの上手さ、
素早く打ち抜くカウンターなどにより、
さすがの内山も捕らえきれませんでしたね。

あの長い手足でスタンスを広くとり、上体を素早く動かすから、
なかなかパンチを当てられない(ズルいですな)。
そこを勇気を持ってインサイドに踏み込んでボディーを打った
内山は凄かったと思います。
コラレスを倒すには、相当のずるがしこさが必要かも。

話は変わって、「神はひとり」という真理が意味することは、
実に深い内容を含んでいると思います。
人間がいくら考えても分からないことは承知の上で、
それでも考えずにはいられないのですね。

ひとりの神によって造られた全被造物から、
善悪が生じ、サタンや罪が発生してくる不思議。
これはどう見ても、キリスト教会が普通に教えている教義
だけでは歯が立たない事柄だと思います。
今年もこの問題にずっと関わっていきそうです。

もう一つ、「残りの民」について。
神が特別に選んでいる宝の民として「残りの民」のことが
語られる場合が多いと思いますが、
私的には、むしろ「残っちゃた民」だと思っています。

他の多くの優れたランナーたちがどんどん先に走っていってしまい、
ついていけなかった民の中に、その一部に、
いわゆる「残りの民」がいるんだろうと思います
(トップ・ランナーたちに、
ついていかないことを選んだのかもしれない)。

今年から、世界的にも地域的にも、そして個人的にも、
いよいよ変革が具体的に現われてきそうですね。




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2016年12月26日

ゲット・バック2

先日、自作の合唱曲の試演が内輪の席で行われました。
不完全な形ながら楽曲の雰囲気は表現できたと思います。

自分自身がピアノ伴奏を務めましたが、
どうやら「音楽家根性」が戻ってきつつ
あるようです。

音たちの織り成す世界に、虚心に没入できるのは、
世間の目とか現代社会人の常識など
(これらに神の名がくっつくと一層の拘束力を
有してしまう)が、
全然気にならない心の状態になれること。
ただ、神が与えてくださったものを
ひたすらクリアに表すことだけ。

以前持っていたものが、一度失われ、
しかしもう一度さらに高いレベルで
取り戻されていく。今その途上にあるようです。



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2016年12月20日

ゲット・バック

久しぶりに書きます。

音楽に本格的に携わるようになったのは、
横浜の教会に通っていた頃。ところが・・・

教会の牧師をはじめ、集っている大人たちも、
多くは首都圏のビジネスマン・タイプの方々で、
私もその影響下でビジネス的に、
商品のやり取りをするように音楽を処理する、
という行き方になっていきました。

ところが、肝心の音楽そのものに対する価値認識は
どんどん低くなっていった。
あまり音楽と音楽界に没入せず、距離を置き、
音楽家ではなく教会人として生きるスタンスに留まる。
そして次第にアーティストとしてのプロ意識は
希薄になっていきました。

今になってみると、この音楽家根性を取り戻すように、
神から迫られている感じがします。
確かに横浜に住む以前には、それを持っていました。
が、一度失ってしまった。
今はもう一度取り戻す時のようです。

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2016年11月22日

音と心

指揮者が紡ぎ出す演奏は、彼、あるいは彼女が
信じていること(神観)の反映です。
当たり前のことだけど、最近その実例を
体験できて面白いです。

A先生は、ハーモニーの純粋な整合性を追及し、
人間的な心情は後回しになります。
私情を廃して被造物の調和に溶け込むことこそ
我らの道だ、という感じかな。

B先生は、ハーモニーの美しさを土台にしつつも、
人間の心の動き、ドラマを構築しようとします。

中世キリスト教の音楽観を当てはめると、
A先生は「ムージカ・ムンダーナ」(宇宙の調和)を
大切にし、B先生は「ムジーカ・フマーナ」(人間の
心と身体の調和)を目指そうとする。

どちらが良いかという問題ではなく、
先生たちが「これは大事だ」と信じていることが
自ずと現われている結果だと思います。

A先生が実際に神の創造の完全な調和と、
その中に人間も心身を委ねるべきであることを
信じているかは分かりません。
が、その人が出す音は、その人自身の心の反映に
違いないと思います。

B先生は、神が創造の業によって用意した地球という
舞台上で、人間という特別な存在が、いかに苦しみ、
喜び、愛し、戦うか。その力強いその営みを
表現したいのだと思います。・・・たぶん。

こうして同じ楽曲、同じ楽譜からでも、
A先生、B先生それぞれの指揮から紡ぎ出される演奏は、
ずいぶんと違った響き、色合いになります。
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2016年11月15日

月の光

大磯に来てから改めて気付くことがあります。

その一つが月の光。
山と海に挟まれているせいもあり、
夜はけっこう暗くなります
(いわゆる盛り場も無いし)。

そのため、月明かりがとても明るく、
そして美しい。今この瞬間も
地面にやさしい影を投げかけています。
ふと思えば、キリストの福音は、
この有様に似ているかもしれない。

もう一つは野鳥。
コゲラ(小さいキツツキの仲間)、
キビタキ(オスは鳴き声が美しい)、
イソヒヨドリ(オスは青とオレンジの
ツートン・カラー)など、
ごく至近距離で直に見ることができる。

こうやって少しでも神の被造物の素晴らしさ
味わえるのが有り難い。

もちろん自然の営みには、人にとって
心地よいことだけではありません。
凄惨に思える場面や、大空、大海、そして
大地のパワーが生き物たちを圧倒することも、
時にはあります。
それも含めて、神の被造物は成り立っている。

やがてこの旧創造の世界が終わり、
新創造の世界が眼前に広がり、
自分自身も文字通り新しい被造物として立つ時・・・。
それはそれは、身震いするほどスゴイでしょうね。


posted by ゆばる at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記