2018年09月27日

ヤドカリ 2

以前「ヤドカリ」というタイトルの記事を載せましたが、
その時は自作の童謡の詞をご紹介いたしました。
今回はその詞を元に作曲した合唱曲の断片を載せます。

この音源は演奏会で実際に演奏された時のものです。
何て云うこともないカワユイ楽曲ですが、
私にとっては個人的に意味深な内容の曲です。

大海原の片隅で繰り広げられる、磯の生き物の様子を
描きながら、そこに人間世界の有様の断片を
映し混もうとしました。




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2018年09月20日

良い経験でした2

一口に音楽と言っても、実に様々な在り方があり、
前回の合唱音楽とは全く違った”合わせ方”を信条とする
ジャンルもあります。

特にポップス系の音楽は、「4リズム」と呼ばれているように、
ギター、ベース・ギター、キーボード、ドラムによる
ビート感とかグルーブ感を大事にします。
これらの楽器は基本的にアタックがはっきりしていて、
音が立ち上がるやいなや減衰してくタイプの楽器ですから、
大切なのは第一にアタックであり、次いでゲート・タイム
(特にベース・ギターにおいて)ということになりましょうか。

ポップス系においては、歌やコーラスさえも、
マイクロフォンで声を拾い、加工するので、
クラシックの合唱のように生の声の響きの様相には、
あまり気を使わないことになるでしょう。

その他、ローカルな民謡やダンス音楽(現代ものだけでなく、
遥か昔から舞踏音楽は世界の至るとこで行われていた)もあり、
アフリカで見られるように踊りながら唱和する形体も
珍しくはないと思います。また、行進曲などもあります。
これらもどちらかと言うと、リズム感や固有のノリを
大切にしている音楽です。

そうしてみると、カテドラルのように残響の効いた環境で、
ゆったりと音が立ち上がり、上方に響きが成立する音楽は、
やはりかなり特殊なものと考えられます。

そこで問題は、合唱曲でありながら
ポップス系の要素を取り入れた楽曲になります。
そしてまさに私の作った合唱曲はそのようなものだったのです。

クラシックの合唱の響きと、ポップなビート感を同時に満たすことは
大変難しいことだろうと思います。
なので、その狭間のどこかに妥協点を見い出していくことになります。
その按配が、各々の指揮者によって異なってくるわけです。

ただ作曲者としては、作品の基本的脈動を大事にしてほしい、
と願うのです。それはその楽曲が未だ形も定まらない時から、
作曲者を突き動かしてきた”いのちの脈動”とも言うべきものです。

この脈動に触れずして、いかに立派な響きを作ったとしても、
あるいは正確無比なアタックを実現したとしても、
それは「的はずれ」であり、人々はそのズレを直感で感じ取ります。
実に人の心から生じる音楽とは、広く、深いものだな、と感じます。



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2018年09月18日

良い経験でした1

この数ヶ月の間に、神奈川県の2箇所(厚木と二宮)で、
私の拙作(いずれも合唱のための作品)が公に上演されました。
これらはいずれも、このブログで書いてきた「コダワリ作曲法」の実践例でしたが、
練習の課程から実演に至るまでの過程を経験できたことは、大変貴重でした。

もう何十年にもわたって、私が作る合唱作品と言えば、
教会の聖歌隊やゴスペル・グループ向けのもので、
歌の内容はもちろん聖書のことばそのままであったり、
それを敷衍したもの・・・、それしかありませんでした。
(それが信仰者というものだ!、と思いこんでいたわけです)

しかし今回は、このブログでも紹介した自作の童謡や、
ベンガルの詩人に触発された自作の詞など
いわゆる世俗的(教会堂の外の世界)な内容の合唱曲でしたので、
私としては画期的なものでした。

ところで、合唱団とかコーラス・グループというものは、
大抵の場合、声楽家の先生が指導、指揮しています。

彼らはそれぞれに指導法をもっていて、独自の理想を掲げて
毎回の練習をリードしているわけですが、
総じて言えば、声楽家の先生の行き方は、
歌詞の内容から出発し、その言葉のリズム感をどう表現するか、
子音と母音をどのように生かすか。
歌の内容に相応しいハモリの響かせ方をどう実現するか・・・。
そういったことどもを大切にしていると思います。

合唱の響きが成立するのは、音(声)が立ち上がり始めてから、
それがホールの上方に響いてゆき、そこで各パートの声が出会い、
交じり合い、響きあう地点ということになります。

つまり、アタックの瞬間よりも少し遅れて、しかもアタックの場所
(ステージ上)よりも上方の少し離れた地点でハーモニーが成立する、
ということになります。この時間と空間のずれが、声楽家のテンポ感、
リズム感を形成していると考えられます。

(続く)
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2018年05月07日

夢と現実

例の夢の中で祈っていた祈りは、
現実と幾分かの関係があったようでした。
その時期、その方は、確かに辛い状況に置かれていたようです。

ただ、夢の中の祈りでは
具体的なお願いの言葉で祈っていたわけではなく、
単純に主の祝福を求めて「ハレルヤ」とか「ジーザス」とか
繰り返していたと記憶していますので、
かなり抽象的なイメージだけでした。

現実の当人にとっての問題解決も、
決定的なものではなく、「神からの励ましと支え」
という感じのものだったようです。
でも、まあ良かった。一先ず安心しました。

それにしても、私自身、そして私の周りの状況も、
速いペースで確実に変貌(良い意味で)しつつあります。
そして、もうすぐ私の作曲した作品も
上演されようとしていますし・・・。

一つ一つの小さな夢が、現実とリンクしていくようです。

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2018年04月24日

夢の中の祈り

非常に稀に、夢の中で誰かのために祈ることがあります。
それも具体的に知っている人のために。

つい最近もそんなことがありました。
私を含めて4人の人たちが一緒に祈っているのですが、
その中の一人の方のために祈っているようでした。
(祈りの言葉は単純で、「ハレルヤ」とか「ジーザス」を
反復していたと思います)

そういう類の夢は、ずっと忘れずに覚えているのですね。

うーんと若い頃の夢で、イエス様が普通の人のように
そっと座っておられて、私と、他二人のクリスチャンが
その場に居合わせたのですが、
その方がイエスであることを、私は直ぐに分かりましたが、
他の二人には全く分からないようでした。
それほどにイエスは、その場の風景に溶け込んでおられた。
イエス様は静かな、柔和な眼差しで
私をずっと見ておられました。

今回祈っていた人に、もし会った時には、
それとなく話を聞いてみようと思います。
(もしかして現実との関連性は全然無いのかも・・・・)
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2018年04月17日

音楽屋さんではなく

だんだんと音楽家っぽい生活へと
変容している今日この頃です。

以前は「キリスト教会の人」っていうイメージを、
自分でも強く持っていため、
音楽の世界に没頭することは難しかったです。
いわゆる”この世”に近づきすぎるような、
何となく危険な感覚があったのですね。

その頃の私は音楽に対して距離を置きながら、
ビジネス・ライクなスタンスの
「音楽関係の業者さん」=「音楽屋さん」
という感じでした。

ところが今は、かなり「音楽芸術まみれ」に
なってきました。
明らかなマインド・セットの変化があったわけです。

逆に聖書に対して距離を置くようになりました。
ってことは、やっぱり「霊的後退」なんですかね?

一つ言えることは、「教会の人」の頃の私よりも、
今の方が、普通の人たちと普通に会話をしたり、
持ちつ持たれつの良好な関係が築いたりすることが
ずっと楽しく、容易になっていることでしょう。







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2018年03月19日

共同生活

さらにスピノザの引用を続けます。

ここでは「共同生活」という言葉が出てきます。
私などがこの言葉を聴くと、真っ先に浮かぶのは
キリスト信者同士の相互の繋がりや秩序、
といったことになります。

これは、キリスト信者たちと、そうでない人たちを分けて、
信者同士の約束事や取り決めを高位に置き、
その立場から「外の世界」(よく”この世”とか呼ばれます)を
距離を置いて眺める・・・という心の構えになっていると思います。

しかしスピノザが「エチカ」の中で語っている”共同生活”は、
そうではなくて、一定の地域で生活を営む具体的な人々、
キリスト信者であれ、ユダヤの民であれ、トルコ人(イスラムのことだそうです)
であれ、現実にその地域で暮らしをたてている多様な人々
(この辺りが、今の我々日本人にとって実感のつかみに難い所)が、
どのように平和に共生していけるか、ということだろうと思います。

〜(引用始め)〜

「この説は共同生活のために寄与する。なぜならこの説は、何びとをも憎まず、
蔑まず、何びとをも怒らず、嫉まぬことを教えてくれるし、その上また、
各人が自分の有するもので満足すべきこと、そして隣人に対しては女性的同情心、
偏頗心ないし迷信からではなく、理性の導きのみによって〜(中略)〜援助すべき
ことを教えてくれるからである。」

〜(引用終わり)〜

ここには当時の、そして現代にも通じるヨーロッパ社会の抜き差しならない事情が
感じられますが、今やこの日本も少しずつ似たような状況に移行しつつあるように
思います。
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2018年03月12日

運命?

前回に引き続き、「エチカ」(スピノザ)からの引用です。

ここでスピノザは「運命」という言い方をしていますが、
これは多分「神の摂理」と言い換えても良いのだと思います。

〜引用始め〜

「この説は、運命に関する事柄あるいは我々の力の中にない事柄
に対して、言いかえれば、我々の本性から生じない事柄に対して、
どんな態度を我々がとらなければならぬかを教えてくれる。
すなわち我々は運命の両面を平然と待ちもうけ、かつこれに
耐えなければならぬのである。三角形の本質からその三つの角の和が
二直角に等しいことが生ずるのと同一の必然性をもって、
一切のことは神の永遠なる決定から生ずるからである。」

〜引用終わり〜

神が造られた宇宙(我々も含む)は神の法則によって支配されている
ということ。これは圧倒的にスゴイ事です。
私たちの五感で感じ取れるものも感じ取れないものも、
何も無いように見える空間そのものも、
海の生き物、地上の生き物、空中の生き物、天使や諸々の霊も全部、
神によって造られ、一瞬たりともその御手から漏れるものは無い。
(私にとって、この被造物全体は主イエスの様態なのですが・・・)

しかし、これらの物事や法則はは古い創造に属している。
人としてのイエスの復活の様を初穂とする新創造というものが、
やがて現われてきますが、時々この潜在的な新創造の状態が
今の旧創造の中に現出することもあり、
それを私たちは「奇跡」と呼んでいるのだと思います。

そしてこれら全てが神の摂理の中にあります。

日常の歩みに起こってくる全てのことを、神の
「永遠の相の下に」(スピノザの言い方)捉えることが出来れば、
心の安らかさを保ち続け、感情に流されずに
適切な行動をとることが可能になる・・・。
スピノザはこんな感じのことを言いたいんじゃないかな、
と思います。
posted by ゆばる at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年03月07日

ご無沙汰です

大分ご無沙汰してしまいました。
そろそろ少し書いておこうと思います。

最近、スピノザの著作を読み返しています。
あいかわらず非常に難解な文書が情け容赦なく続きます。
(この難解さの多くの部分は、日本語訳でしか読めない私に
原因があるのだろう。でも、原語で読みこなせる人にも、
もしかしたら同じぐらい難解なのかもしれない。)

しかし、途中に謎を解くヒントのようなものか散りばめられていて、
ちょっとホッとするのですが、そんなヒントの中でも
「これは!」という箇所に出くわし、
「ああ、この哲学者はこういうことを目標として
これらの論旨を繰り広げているのかー。」と、
妙に喜んでしまいました。

それを少しずつ紹介したいと思います。
以下、岩波文庫のスピノザ「エチカ」(畠中尚志訳)から
少しだけ引用いたします。

(引用始め)
〜この説は、我々が神の命令のみによって行動し・神の本姓を
分有する者であること、そして我々の行動がより完全であり
かつ我々がより多く神を認識するにつれて
いっそうそうなのであることを教えてくれる。
ゆえにこの説は、心情をまったく安らかにしてくれることのほか、
さらに、我々の最高の幸福ないし至福がどこに存するかを
我々に教えてくれるという効果をもつ。
すなわち我々の最高の幸福ないし至福は神に対する認識のみに
存するのであり、我々はこの認識によって、
愛と道義心の命ずることのみをなすように導かれる。〜
(引用終わり)

この文章に続いて、いわゆる奉仕を熱心に行いながら、
神からの報酬と栄誉を期待する人々が、真の徳から
いかに離れているかを理解する・・・という内容が語られます。

スピノザが如何に偉大な哲学者であっても、
彼も人の子であり、時代の子であるために、現代の視点から見ると
不十分な所やズレている所が当然あるでしょう。
が、彼の切り口の純粋さ、透徹した眼差しは、
私にとっては大きな励ましになっていると思います。

さらなる引用は、記事を何回かに分けて続けてみたいと
思っています。




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2017年12月14日

そうこうしているうちに

そうこうしているうちに、今年も残り少なくなってしまった。
この半年の間、様々なことがありました。
(たいていは嬉しいことで、特に孫と遊ぶのは
最高に楽しい!)

音楽活動に関しては、なんだかいろいろ動いています。
私の作曲した作品が県内の複数の地域で練習が進められていて、
来年の上演に向けて始動しています。
私の与り知らぬところで、
いつの間にか事が運んでいるみたいです。

私自身の聖書に対する姿勢や信仰に関することは、
近年大きくモード・チェンジしているのですが、
未だうまく言語化できない状態で、
でもその分、童謡風の作詞と作曲によって
それらを象徴的に伝えようとしている時期
なのかもしれません。

でも、来年はもっと言葉で表現できるように
なりたいと思います。

(先月初め頃、県西部の南足柄のあたりで、自宅の庭を開放して
ざる菊園をやっている方のお庭を訪れました)

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